2013年1月27日日曜日

台紙を作る


 今日もヒレンジャクを見ることができるかと、ちょっと期待しながら朝の散歩。午前中の家事を大急ぎで片付けた家内はかなり期待しての参加だったが、まぁ居ないだろうと思ったけどやっぱりという結果。
上のシロハラはノートリミング。え、なに?という表情が良いな。
左はトリミングしたジョウビタキ雌、敢えて右下を大きくあける。
 この写真は左上を大きくあけてトリミングしたもの。もう少し右下に寄せても良いかな。なんでそんなことをしているかと言うと...
 小鳥を端に寄せたトリミングをすると、下のような絵を作る台紙になるからなのだ。下例が英文なのは、使っているソフトがOSをWindows7にバージョンアップしたら日本語フォントが使えなくなってしまったため。ちなみにシェイクスピアの詩の一部だが、私の語学力では訳せない。
夜になって、煌々とした満月の光が瓦屋根に白く反射している。ほんとにこれから雪になるのかな。


2013年1月26日土曜日

ヒレンジャク


 びーすけの脚はだいぶ良くなったらしいので、朝の散歩はいつもの公園まで足を伸ばす。びーすけが引張るままに歩いていたら、スースーという声がする。声の主を探すとヒレンジャクだった。見たいなぁと思っていた鳥なのでとても嬉しい。高いところにとまっているので特徴の冠羽がなかなか見えない。枝が邪魔してオートフォーカスが迷う、といった具合で写真の出来はもうひとつ。
緋連雀の名のように、群れで行動する鳥のはずだが、今日みかけたのは1羽だけ。はぐれたのかな。
図鑑によれば、ヒレンジャクはヤドリギの実を好み粘りの強い糞をする。糞に混じった未消化の実は、糞の粘性のおかげで他の樹木の枝や幹に貼りつくことができて、ヤドリギは繁殖域を広げて行く仕組み。粘性便をするヒレンジャクが好む実をつけるようにヤドリギが進化したのか、ヒレンジャクが好物のヤドリギが増えるように糞の粘性を上げていったのか、面白いなぁ。
昼から家内と息子のトロンボーンを聴きに行く。今日はソロコンテストの日なのだ。母のためにビデオを撮らなくてはならないが、コンテストだから撮影に関してはルールが厳しい。息子の出番までめったに使わないビデオカメラの操作を確認しつつ演奏を聴く。
ソロコンだから緊張した表情の中学生が一人ぼっちで舞台に立つわけだが、おいおいこんなのうちの子がやれるのかなと、出てくる前からひどく心配になってしまう。ようやく息子が登場して吹き始めると、私は音楽はさっぱりなのだが、けっこう上手いのじゃないのかとか親ばかしたりする。少々よろよろしたところもあったが、よく練習したことはわかったよ。

2013年1月20日日曜日

優先座席考


午前中は野暮用で潰れてしまった日曜日。帰宅してびーすけの様子を家人に確認すると、よろしくないとの事で朝のびーさんは中止したそうだ。それでも私が庭に出ると、やつはやってきて散歩に行きたそうにするから、短い夕方のびーさんに出ることにした。不自然な歩き方をよく見ると、右前足に体重がかからないように歩いている。触っても痛がらないのだがどうしたんだろうね。
すでに日も傾きつつあったので、小ぶりなオリンパスE-PM2に40-150のレンズを付けたものを持って出る。頭上の半月を撮る。
びーすけは少々不自由そうであるものの、あいかわらずクンクンしながらあっちこっちで私を引き止めるいつもの散歩になった。脚の故障で思い出したのは朝に乗った上り電車の出来事。
席は全部埋まっていているが立っている人はわずかという車両に、杖に頼って歩く老婦人が乗ってきた。優先座席の前に立つが誰も譲らない。そのうち婦人の杖のグリップのあたりから、カチンという高い金属音が鳴った。しばらくするとまたカチンと鳴る。繰り返し鳴る。何の音なのだろうと考えつつ、少し離れたところに座っていた私は婦人の手元から目が離せなくなった。婦人がこちらを向いたのを機会に、気持ちはわかったような気がしたので、立ち上がって手振りでここに座れと合図した。優先座席で、とうとうスマホから顔をあげることがなかった若い女の子や、平然と座って婦人を見ていた青年なんぞはどうでも良いのだが、婦人は小さな声で礼を言われたようだが、あまりにも言葉が少ない世界にひどく寒々しい思いをしたのだ。
優先座席は、それまで思いやりの行為だったものを、ルールに変えてしまったものだと私は考えている。優先座席以外に座っている場合は免責になると短絡するアホを生み出したり弊害のあるルールだが、民度の低下なぞとまぁその善し悪しの深い議論は私には荷が重いが、ルールなのだから座らせてくれと言って良い事になった。私がもっと歳をとったら、優先座席まで元気にひょいひょいと歩いて行って、「すまないけど座らせてくれないか?」と言えるだろうか。うむむ。やっぱりルールにはならないのだよ本来。

2013年1月19日土曜日

残雪


 日陰になるところは溶けないから、いつもの公園もところどころに雪が残っている。雪景色の中でいつもの小鳥を撮りたいが、降っている最中は根性無しだから無理なので、せめて残雪を背景に撮ろうなどと考える。
こうしたムシの良い思惑はだいたいうまくいかないものだが、今日はついていたらしい。上はおそらくウグイスだろうがムシを銜えている。シロハラの水浴も撮ることができたし。天気は良いものの日陰だから暗い写真になってしまうのはいたし方無いけどね。
びーすけが右足をかばって歩いていることに気がついた。帰り道がしんどそうだったのが少々かわいそう。私もなぜか昨晩良く眠れなくて身体がとても重い。今日は早く寝ることにする。

2013年1月14日月曜日

雪の結晶


 朝からの雪で家から出られない。それでは雪の結晶でも撮ってみようかと左のようなものを用意した。断熱性の高いプラスティック板に黒い植毛紙を貼っただけ。断熱性が高ければ、手で持って撮影機材まで運んでも、体温で溶けることが無いだろうと考えた。
雪の(あまり)かからない玄関ポーチに三脚で下向きに固定したEOSkissX2に60mmマクロレンズを取り付けて準備完了。なかなか綺麗な六角形を捕まえられないのだが、ようやく上の1枚がささやかな成功。真ん中やや下、やや左側に溶けかかった六角形がある。
びーすけはこの大雪をものともしない。テンションあがりっぱなしで、家の前の公園に出したら走りまわりたがって困った。なぜ犬は雪が好きなのだろうか。雪国の犬もこうなのか。雪の中をつきあって走ったら腰が痛くなってきたので、まだまだ物足りなそうなびーすけに謝りつつ帰宅。
帰ってから雪の公園の写真にびーすけの足跡をコラージュして遊ぶ。
 左画像の中央にある結晶は、下の枝が欠損してしまっているがなんとか形がわかる。これはコンパクトデジカメのマクロモードで撮ったものだが、あまりシャープな画像は撮れないようだ。下はEOSにマクロレンズ。6角形こそ写っていないものの、なかなか美しい画像。雪の結晶は顕微鏡を持ち出さなくても、カメラのマクロレンズ+トリミングで十分であることがわかった。
雪の結晶ではアメリカの農夫ベントレーさんが有名で、伝記が絵本になっている。ベントレー氏の公式サイトもあった。初期の写真機材を使って3000枚の雪の結晶写真を残した情熱は大変なものだ。氏の結晶写真には科学記録としての情報が付属していないことを残念がっている人が居たが、好事家のはしくれとしては「どーでもいいじゃないの」と思う。
なんでも記録があれば良いというわけでもなくて、分析のフェーズで必要な情報が全部揃っていなくては記録は役に立たない。つまり分析の目的と方法によって必要な情報項目は決まり、その精度に応じた記録方法やサンプリングの方法が決まる。こうした事前の実験計画の無い記録は、ある程度は推測の根拠にはなるだろうが、それ以上のものにはなり得ないのだ。
ベントレー氏は科学の対象ではなく審美の対象として雪の結晶を追いかけたのだろう。(伝記を読んでないからいい加減なことを言っています)それだけの魅力のあるものだと、私も今日思ったですよ。


2013年1月13日日曜日

居つくもの


 公園にヤマガラが居ついてくれたようだ。今日は2羽見ることができた。この羽を広げたら綺麗だろうなと思って、今日もシャッタースピードを1/1250以上の高速に引上げるのだが、なかなかチャンスはもらえない。
数少ない飛翔の瞬間。いやもっと翼を広げたところを後ろから..とか注文したいところだが、こちらの都合なぞ聞いてもらえるわけもない。
左は2枚の合成だが、望遠の狭い画角の中ではこういうことになる。小鳥の場合、飛び出しからしばらくは羽を広げないので所望の絵は得られないという好例。
下は家の庭に飛来したシロハラ。先日家内がツグミくらいの大きさの茶色い鳥を見かけたと言っていたのはシロハラだったらしい。雑食なので虫も植物も食べるそうだが、この家に何を食べに来ているのだろう。常連さんとして居ついて頂けるのでしたらご用意しますが。

2013年1月12日土曜日

女流作家の時代小説に対する相性問題


宮部みゆきの「おそろし」を読み始める。この前までは北原亞以子の「仏の慶次郎縁側日記」シリーズを読んでいた。どちらも女流作家の時代物だ。気楽な読み物として時代小説は気分転換になるはずだったのだが、慶次郎シリーズはちょっと苦労した。
 するすると読み進めないのだ。筋立ては魅力的で面白いのだが、日本語がすんなり頭に入ってこない。情景が理解できないところを何度か読み返しているうちに、そうとう私も頭が悪くなったのだろうと少し凹んだ。いやいや女流作家の時代小説というものが合わないだけだろうとか色々考えて、リベンジに宮部みゆきなのである。
ところがこちらはするする入ってくる。なんだろうと考えて、再度北原を読んでみると、この方の書き方が私には難しいのだとわかってきた。直木賞作家の文体にいちゃもんをつける度胸は無いが、一人称視点で説明している情景が、誰の視点なのかわからないために混乱することがある。前後の文脈を慎重に見直せば、登場人物の誰であるかは明白だから、即座に読み取れない私に問題があるわけだが、今の私にはこんなことが難しくなってしまった。また、コピーライターから転身した方という事もあるのかもしれないが、語順にひねりが効いていてスルンと入らないのではないかと思えるところもある。
まぁ相性の問題もあるし、老化が進んでいる私の脳みそが適応力を失っているということなんだろうな。文句はつけたものの慶次郎シリーズは人気があるだけのことはある。宮部みゆきも実に面白い。

2013年1月6日日曜日

寒修行


 ムラサキシジミはあいかわらず自力では発見できない。今日も教えて頂いたのだが、あそこだと言われてもわからない。左図には2頭写っているのだが、わからないよね。上のジョウビタキ♂は、昨年とまったく同じ場所で至近から撮れたからエズケノジョー君であることはほぼ確定。


 アオジの3枚を合成したもの。今年は良く見かけるような気がする。同じ公園で見た方が居るので、クロジを撮ることもできるかもしれない。



 お正月には裸で水に浸かる習慣が各地にある。寒修行だな。
鳥がそんなことをするはずは無いので、たまたま散歩していたらヒヨドリの群れが水浴びをしていただけ。

散歩中の脳細胞は、中の電気信号がいつも以上に自由気ままに動き回っているから、こういう無理やりのこじつけも思いついたりする。
それにしても、ヒヨドリにとっても寒いはずなのだが、この光景はあまり寒々しい感じがしない。
年賀状のおかげで最近音信の無かった会社の先輩からメールが来た。お正月はやっぱりあまり好きでは無いのだが、良いこともある。下のびーすけはフォトショップで絵画風に味付けしたもの。

2013年1月5日土曜日

庭で撮る


 公園に散歩に行っても、良く見かける鳥ばかりでつまらないと思いながら家に帰ってくる。いや..良く考えてみればびーすけの散歩のついでの鳥撮影なのだから、撮り尽くせばそーいうことになるのは当たり前。
 これは以前からわかっていたことではあるのだが、この年末年始の休みでさらに思い知ったような気がする。撮影対象をいかにうまく写すかという段階でさらに精進すると言ったところで、それはどれほど面白いのか..
偶然の行き当たりばったりを期待していても歩留まりが悪すぎる。かと言って、鳥撮りの先達のように計算づくをじっくり仕掛けてじっと待つというスタイルは私には無理のような気がする。
 拙宅の狭い庭にも、隣の家に柑橘樹があるせいか、けっこう小鳥はやってくる。シジュウカラやメジロ、ヒヨドリ。今日は一瞬だがジョウビタキの雌も立ち寄ってくれた。
 庭のベンチにびーすけと腰掛けて、ぼんやり待っていたら(けっこう寒いのだが)何枚かは楽しい写真も撮れた..というのが今日の写真。庭の散らかったところが写野に入らないようにするのがちょっと苦労だったりする。下は夕方のびーさんで撮った遠くの富士山だが400mmなので画角が狭い。もうちょっと広いと良い雰囲気だったのだが。

2013年1月1日火曜日

年賀状


 小学生の低学年から年賀状を作るのは我が家では私の仕事だった。家族全員が私の作った絵柄を使っていたのだ。これは父の姑息な作戦で、仕事の関係から出版やデザイン関係者、つまり目の肥えた人にも賀状を送らなくてはならなかったから、子どもの絵なら(どんなものでも)寛容を持って受け入れられるはずという計算だったらしい。これは後年父から聞いた話。
 芋版から初めて、ゴム版や木版などを使った記憶がある。厚紙に貼ったフェルトを切り抜いて、水彩を含ませて刷る方法は、多色刷りが簡単にできるのと、絵の具の滲み具合が面白くて長く愛用した。馬簾の強さや絵の具の含有量で出来不出来があるから、父がこれは良く出来たからあの方に、これはこの人でいいやなどと独り言を言いながら選り分けていた。プリントゴッコという画期的な印刷方法を、家内が嫁入り道具の一つとして持ち込み、パソコンと高性能なインクジェットプリンターに代わるまでは、年末になると床いっぱいに葉書を広げて乾かしたものだ。
それにしても、図案がすぐに決まれば楽しいのだが、なかなか決まらないことが多い。この毎年の恒例はけっこうな精神的負担で、12月の声を聞くと気が重くなったりもした。
その反動もあってか、年賀状のやりとりにはあまり熱心にはなれない。送ってくださった方には返すのだが、図案も手書きのあいさつが短くて済むように場所ふさぎが目的のようなもので、あまり心がこもっていない感じが最近は多いが、とは言えあんまりなものも出したくはない。
 昨年も押し詰まった12月31日になって、家内が作ってくれないのかと言い出すから、適当に写真をながめてコラージュでごまかしたのが上の画像。29日に撮ったシャボンの写真だったりするところがいかにも付け焼刃。しかし家内はあまり気に入らない。しかたなく昔撮った富士山の写真やら鷹の写真などを探して、いかにも寿いだ感じの絵を作ってみせた。かろうじてお許しの出たものを量産したが、なんとなく文房具屋さんや本屋さんで売っていそうなものができた。「なんか買ってきたみたいだね」というのが家内の評。誉められたわけではない事は確か。