2013年1月12日土曜日
女流作家の時代小説に対する相性問題
宮部みゆきの「おそろし」を読み始める。この前までは北原亞以子の「仏の慶次郎縁側日記」シリーズを読んでいた。どちらも女流作家の時代物だ。気楽な読み物として時代小説は気分転換になるはずだったのだが、慶次郎シリーズはちょっと苦労した。
するすると読み進めないのだ。筋立ては魅力的で面白いのだが、日本語がすんなり頭に入ってこない。情景が理解できないところを何度か読み返しているうちに、そうとう私も頭が悪くなったのだろうと少し凹んだ。いやいや女流作家の時代小説というものが合わないだけだろうとか色々考えて、リベンジに宮部みゆきなのである。
ところがこちらはするする入ってくる。なんだろうと考えて、再度北原を読んでみると、この方の書き方が私には難しいのだとわかってきた。直木賞作家の文体にいちゃもんをつける度胸は無いが、一人称視点で説明している情景が、誰の視点なのかわからないために混乱することがある。前後の文脈を慎重に見直せば、登場人物の誰であるかは明白だから、即座に読み取れない私に問題があるわけだが、今の私にはこんなことが難しくなってしまった。また、コピーライターから転身した方という事もあるのかもしれないが、語順にひねりが効いていてスルンと入らないのではないかと思えるところもある。
まぁ相性の問題もあるし、老化が進んでいる私の脳みそが適応力を失っているということなんだろうな。文句はつけたものの慶次郎シリーズは人気があるだけのことはある。宮部みゆきも実に面白い。
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